母父トニービン

明るいところで読んでね

賞賛と批判のあいだ

 


君は批判する権利があるか? 批判のマナーを教えてくれた教授の一言が人生でめちゃくちゃ教訓になっている - 人生かっぽ — 佐藤大地のブログ

 

 

いいこと書いてんなー。

 

この理論でいくと、批判だけじゃなくて賛同する場合も注意が要るような気がする。

明らかに真意を汲み取っていないのに賛同されるのもなかなかキツいと思うよ。あまりにも的外れな批判もそうだけどあまりにも的外れな肯定もねぇ。

お笑い芸人がフリを効かせて効かせて・・・ってやってる途中でまだ笑わせるところまできてないのにウケちゃうのってけっこう辛いだろうなと思う。それは笑わせようとするほうの技術にも問題があるけど手軽に笑おうとする側にも多少は問題があるのかも。いや別に各自が面白いと思ったところで笑うのは問題ないか。笑うポイントを強制するのは芸人側の我侭か。我侭言い出したら終わりかもしれないが我侭がなくなっても終わりかな。何書いてんの俺。

意見するのも批判するのも自由だしいいんじゃないか。むー。そうだろうか。ただ批判したいだけの奴もいるだろうしなぁ。闇雲に批判されたらやっぱり納得いかないだろうしなぁ。

書き手がどんなテンションでどれくらいの熱意を持って書いているか見極めるのは難しい。というかほぼ無理か。

そもそも人の真意をきちんと理解するって相当難しいし、ましてや文章で正確に伝えようなんて難しすぎる。

俺はきちんと伝えようとして文章を書いているか?いないな。というか「俺の真意をわかってくれよ!」とか思って書いてないと思う。俺の文章の真意ってなんだよ。いやそういうこと考え始めるとまた何で俺はブログを書いてるんだぁーウオオオオーとかハマるからパスで。パス1ね。

 


「2015年に個人ブログをやっていくこと」について - いつか電池がきれるまで

 

 今年、2015年に考えているのは、目に見える「賞賛」とか「反発」に一喜一憂するのではなくて、もっと「沈黙」に目を向けていきたい、ということなんですよ。

 そこに「答え」を見つけるのは難しいのはわかっているけれど、「沈黙」が、正しさとか優しさにいちばん近いことって、少なくないと思うから。

 

俺は「なんかこういう感じあるじゃん、わかってもらえたら嬉しいしなんとなくでも伝わってたらいいな」くらいの感じで書いてることが多いと思う。いや多くないかもしれない。どうなんだろう。

読んでくれた人にわかってもらえたかそうでないかは全然大した問題じゃないのかもしれない。喋りたいこと喋ってれば満足なのかもしれない。はてなで書き始めた頃はまさに「王様の耳はロバの耳」ってな具合で、ゴミ箱にポンポンとゴミを投げ捨ててるような感覚があってすげー気持ち良かったんだよね。

えーっとだから何だ、わからん、パス2ね。

 

クレームを減らしたいからテレビは自主規制を進めるし、ページビューという数の賞賛を得たいからネットニュースは釣り見出しで内容のない記事を書く。

そういうのとは離れたところで書きたいことを書いて沈黙を得ているのかもなー。

 

もう先頭に貼った記事あんまり関係なくなっちゃった。だいぶ序盤で関係なくなっちゃった。

もともと人の文章に対して批判や意見を述べることのない俺にはあんまり関係なかったのかも。なにそれ。