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母父トニービン

明るいところで読んでね

他意は無い

 

夕焼けの写真を撮ろうとするのは卑怯だと写真を撮りながら思った。夕が焼けてるその時にその空をを見ればいいわけでそれを写真に収めてあとでまた見ようなんてのはおかしい。「今日の夕焼けはとても綺麗だった。君と一緒に見たかった夕焼け、メールにて送ります」とかならいい。「お母さん夕焼けの写真撮ったよー見てー」「あらー綺麗ねー上手ねー」とかならいい。さっきの俺はそんなんじゃなかった。ただ撮っただけだ。今日のこの夕焼けを目で見ろ。そして明日の夕焼けに期待しろ。

っていうか別に夕焼けを撮ろうとしてカメラを起動したわけじゃない。紫陽花が咲いているのを見かけたので写真に撮ったら他にも何か撮りたくなったから撮っただけだ。その時間帯がたまたま夕暮れだっただけだ。そして前に夜に写真を撮ったことを思い出してその近辺で撮ってみた。他意は無い。撮ってみただけだ。同じ小道のたかだか200~300mの範囲であろうがそれっぽいものが撮れるものだと思った。

そもそも夕焼けはその時の焼け具合や空の色合いそのままを切り取ろうとしても周囲の景色との明るさバランスを機械が勝手に調整してしまうからか上手く写真には収められない。少なくとも俺のスマホのカメラアプリではそうだ。これはだいぶ前に実証済みだ。無理だというのは既にわかっている。

やはり文章には文章の良さがあると今書きながら思った。最近は長い文章を書くことをかなり億劫がっていた。「どうせ書くなら1000字くらいは書いておこう」という微弱な意識がいつからか芽生えて育ち大体いつもそれに従ってしまっている。そんな植物の実はただの枷でしかないのは解っているが今こうして書いている画面の端にも文字数が表示されてしまう為にどうしても意識してしまう。最初から1000字以上書こうというつもりでもないのだが例えば今ここまで/書いた時点で763文字と表示されている。文字数が表示されていることを知るまでは文字数なんてほとんど意識していなかった。もう800文字を超えた。気になる。オン/オフ機能くらいあってもいいのではないか。文字数が常に見えていると仮に800文字くらいである程度書きたいことを書ききっていても「どうせ書くなら1000文字くらいは書いておこう」とこういうことになる。それは自然と決定していてそこに何の疑問も持たない。なぜ短い文章ではいけないのだろうか。いけないと思っているわけではないのだが数回続けると今度は続けないことに対して理由が必要になってくるので困る。

文章を書くこと、税金に近いような発想がどこかにあるかもしれない。自分が何か書くことで人の文章を読める。所謂ROM専というのはどうもこの場所では合わないのではないか。書かないやつは読むなという空気があるわけではないし書きたくなければ書かなければそれでいいのだが書いているほうが落ち着いていられる。

しかし自分の文章を書くときは書き終えた後に軽く読み返して誤字脱字などのチェックほか仕上げに手間がかかる。仕上げを行って公開した後に誤字を見つけて直しを入れる時に謎の弱気になる瞬間がとても嫌いだ。読む側からしたらきっと多少の誤字くらいどうということはないだろう。おそらくは誤字で恥をかくことではなく誤字を見つけられなかった自分が嫌なのだ。誤字があってもまとまらなくても書くこと自体の意味が大きいのはわかっているつもりだが「公開する」をクリックするにはそれなりの覚悟もしくは「えーい」というような勢いが必要だ。

書けない時ほど書こうとしないと書けない。魔女の宅急便ウルスラ(森に住む画家女の子)の台詞を無条件にずっと信用している。「じたばたするしかない、描いて描いて描きまくる。(それでも描けなかったら?)描くのを止める、何もしない、すると急に描きたくなる時がくる」。子供の頃にそれを見て「こういうものなのか」と信じ込んでしまったせいで、少しじたばたしてすぐに止めるのが自分のやり方として定着してしまっている。要は諦めが人一倍早い。

それもひとつ自分の良いところとさえ思っているし、早いうちに冷静な視点を取り戻せるという意味で実際それは間違っていないと思う。仕事などでも複数人で熱中して何かを進めている時に壁に当たると早めに諦めるので「熱意が足りない」と見られることも時としてある。自分では一回諦めて冷静さを取り戻した上でもう一度頑張ろうというつもりなのだが上手に伝わらない。特に何かを書こうとして書き始めていないときほどまぁまぁ長く書けるもんだ。1863文字。