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母父トニービン

明るいところで読んでね

誰も触われない

 

「こじまは」まで打つと予測変換で出てくるから便利だが、それって結局自分の領域外の思考ではないか、とスマホで書き始めた早い段階から考えている。しかし逆に領域内について考えると例えばワープロで打つ場合も自分が書けないような漢字が書けてしまうし、じゃあ紙とペンならばセーフなのかというと、すごく細くてインクの出の良いペンならば画数の多い漢字でもすいすい書けるが4Bの鉛筆だとか指先で書くとかならば難しい。紙というのも大変ありがたい存在で、もし砂浜に書くとかならば、十何文字書いたところで嫌になってしまうだろう。
 
これ読んで、俺のブログはどこからどこまでが俺なのかという普段考えないようなことをちょっと考えた。
頭に浮かんだことの全てを書いてるわけでもなければ書きたいことが書けているわけでもないし、直感と論理から生まれるともなく生まれる思考を文章という輪郭のあるものへ決着させるために言い回しをわずかでも整える必要があったりする。
それを整えようと試せばするほど元の泉からは離れたところへ流れてゆくわけで、潮の流れをある程度は読みつつもそんなほとんど漂流しているような状態もなかなか悪くない、というのがこのブログが続いてる理由なのかもしれない。いやそれも全然違う気がする、という考えすらも漂流なのかもしれない。
思ってるのと考えてるのと喋ってるのと書いてるのと入力してるのが混ざっていて、そしてそれらがせめぎ合うこともなく輪郭を持ってここに積もっていく。
そこに読めない行間が無限に存在していて、その一方で今この画面に表示されている文章はこうして入力したものの全てである、というのは矛盾かパラドックスか、もうわからん。
そういう漂流なり無限の行間なりの一番外側の輪郭がこのブログである、と表明することもできなくはないが、漂流の先に世界の果てを見つけて、地図を手に入れた人間は結局宇宙へ出るしかなくなる。
ロビンソン・クルーソーはルララ宇宙の風に乗るか。