母父トニービン

明るいところで読んでね

ただ憂えている

このところ、年金制度の破綻や終身雇用の終焉など、既存の社会システムの崩壊についての話題をよく目にする。

しかし、そもそもそこに全幅の信頼を置いていなかったので、間違いなくこれから先に自分達が実害を受けるとはいえ、そういうものを割と冷静に受け止めている部分がある。

 

では、全幅の信頼を置いていたものが崩れた時には何を思えばよいのだろうか。

自分の中に何本か存在している大きな柱のようなものがあって、その中でも特に太かった一本が、ついに崩れてしまった。

 

彼は闘うのをやめた。そう感じた。感じてしまって、認めざるを得なくなってしまった。

彼は自身への批判に対して、最初は自分の言葉で反論していた。一理あると思わされる返しもいくつかあったが、正直言って見苦しいという感覚も否定できなかった。貴方は誰なのか、と。芸能人にもネットが身近になったこの時代、それも許容範囲ということで妥協していた。

しかし今回は、自分の反論を補強するために、素人と思しき全くの他人の言葉を用いた。それも、何の深みもない、あんな凡庸で乱雑な文章を。

他人の言葉を引っ張ってきたということは、自分で言葉を探しに行って、目に付いたものの中からあのひとつを選択して、それを自分のところから撃ち出す、その一連の流れを全てやったんだと自分から言っているようなものだ。あの彼が。

 

昔から、彼の持論や意見について、良い悪いというのはあまり思わなかった。これまでも、彼の考えを参考にして生きてきたわけではない。

重要視していたのはきっと意見の内容ではなく話の展開のさせ方で、突拍子も無い視点から語り始めて問題の輪郭をぼやかしつつも本質を突いた(ように見せた)り、笑いに変えて誤魔化したり、そもそも発言の本気度がよくわからなかったり、そういう何の解決にもならなくとも着地させてしまうところに魅力を感じていた。

しかしそれも、近年は限られたいくつかのパターンで回していると薄々感じていた。と言ってそれを批判してしまうのはちょっと酷というか、もうそれ以上が出せなくなってきたのだから、もっと、もっと、以前のように!と望むのは無理がある。

そろそろまた何か別のことをやればいいのに・・・と、次の何かへ移行することを望んでいた。

 

実は最近、暇つぶしに昔の映像をよく見ていたんだ。相方と二人きりでトークをしている映像を。過去にしがみつきたい気持ちがあったのかもしれない。なんにせよ、何度見ても本当に面白い。過去は変わらない、それだけが唯一の救いだ。

 

この数年間、彼の発言を聞いて「ん?」「なんだ今のは?」「何かおかしなことを言っている気がするが・・・」と感じながらも深く考えずにいたのは、やはりこれまでの全幅の信頼があったからだろう。

しかし、それがいよいよ反転してしまった今となっては、ただただ遣る瀬が無い。止めて欲しいとも思わない。

「あいつは終わった」とゴミ箱に捨てるのはあまりにも忍びないから、せめて、今までありがとうと言いたい。でも、それもとても言えそうにないよ。

永遠などないと突きつけられて、呆れるでも怒るでもなく、ただ憂えている。