母父トニービン

明るいところで読んでね

押しボタン式信号

 

駅からの帰り道。

押しボタン式信号のボタンを押すかどうかいつも迷う。

 

他に渡りたそうな人がいれば何の迷いも無く押すことができるんだよ、その人が渡るためならば。

しかし渡りたいのが自分一人だけだとどうしても躊躇する。

俺が何かちょっと上手いことやるなり我慢するなりすれば車を止めないで済むわけじゃん、あれ。

もちろんボタンを押して渡らざるを得ない時もあって、その時はわずかに後ろめたさを感じる。

車を止めるために押すはずのボタンなんだけど、自分が渡るために車を止めるのって抵抗があるんだよね、どうしても。

 

 

 

 

 

 

機械的にコメントされるぐらいならコメントなんてしてほしくない。

 

 

俺はSNSと文章を書くことを区別してみようかなーと思い始めたタイミングで丁度はてなブログが見つかったからこうして書いてるわけなんだけれども、はてなにもこういう「お付き合い」がないわけじゃないのね。

確かに書き始めてしばらくしてから、そういう場合もあるのかなーってなんとなく雰囲気は感じていた。

コミュニケーションを楽しんだり意見交換して考えを深めたり、仲良くなるのはまぁ面白そうではある。

でもそれ続けてると仲良くなった相手に批判的に受け取られそうな文章が書けなくなったり、過剰に配慮してしまってバンバンジー食った後に鶏肉が歯に挟まったままみたいな文章になったりしないのかな。

そこはそれぞれのブログの使い道や内容によって変わってくるんだろうけど。

 

 

いろんな人に読んでもらえたら楽しそうだと思うけど、読んでもらうための「営業」はなるべくしたくないと思っている(最初はそういう色気もどこかにあった気がするが)。

「俺の文章面白いんで読んでください!」アピールするなんて俺はちょっと無理だなぁ。

大体ハードル上げて俺の文章なんて読まれたらたまったもんじゃないし、自分がそういうこと言われたら絶対うっとうしい。

 

かと言って、自分が書いたものが誰の目にも触れないのも寂しい。

面白けりゃ自然と広まるもんだと思うし、でもそのために全然思ってもいないことを書こうとは思わないし、まぁちょっと格好つけて書くことはあるけれどそういうのは楽しいし、えーっと何だっけ。

 

 

 

まずは読まれなけば、それが良いかどうかの判定すらなされないは事実であるし、あまりに読まれないまま埋もれていく文章が多いのは残念だとも思うのだけど、一番の読者は自分自身であるし、それでも何かを期待してくれる人々を大切にしたい。

 

 

あー、ちょうどそんな感じ。

もっと大勢に読まれたい評価されたいっつってそっちに寄せた文章を書くのは今読んでくれてる人にも失礼だしねぇ。って読んでくれてる人の気持ちを考えることなんてほとんど無いか。

 

数字で出るから人気の指標とかになりがちなブックマークもスターも引用ツイートもイイネ!も、人によって用途が違うし強要するもんじゃないし、何よりいちいち付けない人のほうが圧倒的でしょ。

だからこそ・・・なのかわからないが、「読んでくれて何かしら思うところがあった」「こちらに伝わる形のリアクションをしてくれた」ってことは素直に嬉しいね。

 

そうそうこの間、誤クリックで自分で自分の記事に星つけちゃって、律儀にその「星いただきました通知」が自分のとこに来て一人で恥ずかしくなっちゃったよ。

 

俺も面白いと思ったブログには星をつけたりブックマークしたりしてるけど、巡回営業ではありませんよー。

 

 

意を決して押しボタンを押したのに車が全く来ない時、あれもけっこう切ないよね。

 

 

あーなんかこれ書いてけっこうすっきりした。