母父トニービン

明るいところで読んでね

わたしはおばあちゃん

 

今日はおばあちゃんの命日なんですよ。母方の。

 

俺のおばあちゃんは俺が1歳の時に亡くなったから覚えてないどころの話じゃなくて最早知らないと言っていいくらいに一切の記憶がない。俺はもしかしたら田中角栄よりも記憶がない。もし今夜寝てる時枕元に急に来られても「いやぁ人違いじゃないですかねぇ、僕明日早いんでそういうの困ります」って追い返すであろうくらい知らない。

仏壇の近くで見かけた遺影の顔もメガネかけてたっけかけてなかったっけいや遺影でメガネかけないだろいやいや遺影とメガネは関係ないだろ確かメガネかけてた気がすんだよなぁくらいにしか覚えてないし、よくよく考えてみたら名前が思い出せない。親に名前を聞いてみたこととかあるのかな。遺影のはじっこかどっかに書いてあったのを見た気がするけど記憶にないな。顔も名前もわからないってそれ本当に知らない人だろうよ。

でも俺が生まれた時にはおばあちゃんがいたらしい、俺は知らないけど俺の親がそういうのでどうやらそういうことらしい。向こうからしたら俺があの年に生まれといて良かったんだろうなぁ、亡くなる前に孫の顔見せられてよかったなぁ、その時点で一旦俺の生まれた意味は発生しているんだなぁ、じゃあそれ以降は好きにさせてもらってもかめへんよな☆とか勝手に考えている。

俺が大人になってからおばあちゃんを知ってる人に聞いた話ではどうもおばあちゃんが亡くなったのは50代前半だってことなんですけど、今うちの母ちゃんはもう60を過ぎているのでおばあちゃんよりおばあちゃんなんだよ。中身おばちゃんだけど。毎年2月3日はそのおばちゃんの住んでる家に行くんですよ。豆とか関係なく。

そしてうちは2人兄弟で、弟が生まれて1年以内におじいちゃんが亡くなってるんですよ。これは俺も記憶があるところだから間違いない。我が家は見張り番を交代するみたいな感じでちょっとだけ期間が重なって命が交代したのかもしれませんね。そうなると俺は俺のおばあちゃんなわけか。おばあちゃんが何を見張っていたのかはまだ見つからない。生きてるうちにきちんとした引継ぎがあったのかどうか、いかんせん当時の記憶がないしメモを取る習慣もなかったようなので手元に情報が残っていない。

 

で、これだけ書いておきながら今日は事情により結局仏壇の前に行くことはないんですけど、今朝俺のおばあちゃんよりおばあちゃんなおばちゃんにメールしたら「(俺)の分もお線香あげとくよん☆ありがとう(笑顔の絵文字)」と返事が来てぜんぜんありがとうとか言われる筋合いないなと思ってるんですよね。

記憶の中ではぜんぜん知らない人だけども俺の中で俺のおばあちゃんはあんたの母親である以前に俺のおばあちゃんなんだから娘のくせに勝手に感謝しないでほしい。それとも遺族ってのはそういう感謝の意を持つもんなのかねぇ。いや俺も遺族のはずなんだけどどうなってんの。俺のおばあちゃんであって遺族でもあって遺族に感謝されてる俺の立ち位置がわからん。

おばあちゃんの命日は完全に覚えててなるべく毎年お線香あげに行くのにおじいちゃんの命日はあんまりよく覚えてなくて確か6月だよなーって雑にしか記憶してない俺はやっぱりおばあちゃんなのかもしれない。だっておじいちゃんのことは覚えてるし写真見たらこの人は俺のおじいちゃんだってわかるもの。だから知らないほうの人の命日を気にかけるのは当然の流れだと思いませんか。

 

そんなわけで節分とか今んとこ全然興味がないんですよ。豆まきの片付け大変そうですねとか思っちゃう。

さらにそこへもってきてここ数年の恵方巻ですよ。関東ではあんまり馴染んでないあいつ。スタンダードな大きさがよくわからないあいつ。もともと自分が大して興味ないイベントの上にさらに馴染みのないものが乗っかってきて年に一度の謎の食べ物になってしまったんで、たぶん一生食べることはないんじゃないかと思ってた。

でも今日スーパーで「只今よりジバニャン恵方巻を20%オフで販売致します!」って惣菜コーナーの店員が叫んだのを聞いてなにそれ絶対食べたいと思ったのに、わーって人が集まっちゃってて恥ずかしいから少し間を置いてから惣菜コーナーに行ったらもう売り切れてて泣いた。千載一遇の恵方巻チャンスを逃した。お疲れさまです。