母父トニービン

明るいところで読んでね

づtfcgv@pb97g8ほ:じむ、い

 

「夕焼けの写真を撮ろうとするのは卑怯だ」とこの間書いた。じゃあ夕焼けを言葉で表そうとするのは良いのか。いや夕焼けに限らない。なんでも言葉の枠に当て嵌めることで可能性を摘んでしまうのではないか。写真はその瞬間を完全に切り取って残す。意図しない何かが写り込む場合もあれど基本的に写していないものは写らない。だから鮮明で強い。言葉というのは表そうとしている対象が見え隠れするので表したいことを直接書かなくても行間を読むという行為によって何かが見えてくる。言葉は何かをぴったりと表現できそうに思えて意外と使い勝手が悪いものだから、対象を直接的に表現するよりは間接的に表現するほうが良いのかもしれない。「悪くない」「嫌いじゃない」というのはなかなかよく伝わる表現だし、比較的本心からの言葉に感じられる。「嬉しい」は時として嘘くさくもあり若干盛っているようにも見えるが「なかなか悪い気はしない」だと正直な感情に見える。そういう言い方ばかりしているから日本人男性は女性に対して愛情表現が足りないなんて言われるのかもしれない。

言葉で書くと書いた本人にも見えていなかったものが後から見えてくることもある。写真もそうなのかもしれない。俺は闇雲に撮っているだけなのでわからない。それでも俺が夕焼けを撮ろうとするのは卑怯になると思う。いやだから夕焼けを撮っていたわけではないのだ。夕暮れの景色を撮っていた。暮れなずむ街の光と影を撮っていた。「夜に写真撮ったらどうなるかなー」というのは今考えてみると、自分の目で見る夜の景色と写真に写る夜の景色との差異を見出したかったのかもしれない。歯が痛い。

好き、という言葉はもしかしたらあまり使わないほうが良いのかもしれない。何かが好きということが自分のアイコンになってしまう。いや、そんなことはない、使ったほうがいい。好き、に縛られてはいけないということ。俺は「あじさいすきお」だから紫陽花が好き、というのは何か変だ。それだと因果関係がおかしなことになってくる。別に紫陽花を好きでい続けようとしたことはない。やはり自分で自分に名前を付けるのはあまり良くないかもしれない。しかし「あじさいさん」なんて呼ばれるのもなかなか悪くないものだと思う。