母父トニービン

明るいところで読んでね

うーん、どうしよう

 

なんか出たらしいじゃん。本が。手記が。

 

俺あの人とだいたい同世代なんですよね。

だからあの時はそれくらいの年齢だったわけなんですけども、ニュースなんてほとんど見なかったんで当時はふんわりとしか事件のことを知らなかった。あとからWikipediaで調べてこんな事件だったのかと驚いた。

当時の印象はあの学校の正門の映像と、あの挑戦状と、週刊誌に写真が載ったのを友達が見たとかそれくらい。

 

ただ「見た目は普通の中学生だったのにあんな残虐な事件を」みたいな報道のされ方がすごく印象に残って、全然悪いことしなさそうな奴が実はめちゃくちゃヤバいってな時代に入った、って認識が完全に刷り込まれた。

たぶんその影響が大きいと思うんだけど、俺も何かのきっかけでこういう方向に走るんじゃねえかな~怖いな~、って方える癖みたいなもんがこの時についたと思う。

 

秋葉原のあの人もだいたい同世代。

どうも俺は人間が善い行いをするのも悪いことをしちゃうのも原因の多くは環境にあると思っているようで、秋葉原の時は特に「もし自分が加害者と同じ状況に置かれたらどうする?」とかはよく考えた。考えても何か明確な答えなんてものは出ないんだけど。

俺も自分なりに苦しさを感じていた時期も過去にはあったし、もしその時にもっと辛いことがいくつも重なって相談する人もいなくなってそれでも犯罪に走ることはないかって問われたら100%の「はい」が言えるかはやっぱりわからない。

 

もちろん被害者やその遺族にとって加害者は「完全な悪」であって、何かある度にこうやって蒸し返されて加害者の話ばっかりになるのも当然納得がいかないだろうな。

別に「被害者と同じくらい加害者もかわいそう」とかそういうことを思っているわけじゃないんだけど、このふたつの事件は加害者が同世代だからやっぱりいろいろ思うところはある。

 

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加藤被告によって起こされたこのような事件を単に量刑を決めて落着させていては、社会は1ミリも変わらない。幾度も引用するが、安田好弘弁護士はその著『死刑弁護人  生きるという権利 』のなかで次のように言う。

" いろいろな事件の裁判にかかわって、はっきりと感じることがある。

 なんらかの形で犯罪に遭遇してしまい、結果として事件の加害者や被害者になるのは、たいていが「弱い人」たちなのである。他方「強い人」たちは、その可能性が圧倒的に低くなる。私のいう「強い人」とは、能力が高く、信頼できる友人がおり、相談相手がいて、決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる人たちである。そして「弱い人」とは、その反対の人、である。私は、これまでの弁護士経験の中でそうした「弱い人」たちをたくさんみてきたし、そうした人たちの弁護を請けてきた。"

 

 

「決定的な局面に至る前に問題を解決していくことができる」ここだよなぁ。解決できなくても「いやーあの時はほんと大変だった」なんて後から言える状況にできたことも強さなのだろうか。

自分が犯罪を起こす側になることなど考えもせずに暮らしている大多数の「強い人」たちは今回の本を読んでどう思うんだろう。

 

しかし・・・神戸のほうの同世代はどうも理解できそうもないという印象なんだよな。

だから理解できる部分がどれくらいあるのか知りたいといえばそうだし・・・これを書き始める直前は完全に読まないつもりでいたのに。

保護観察期間を終えてからの部分だけを読むか?うーん、どうしよう。

 

読むか読まないか、結局まだ決められない。