母父トニービン

明るいところで読んでね

人のブログを読んで思ったことを書くのは最高にロックだ

 

今日は6月9日、ロックの日ですよ。

最近の私のロックな出来事といえばSuicaに3000円チャージしたことですかね。直後にちょっと後悔したもんね。いやー流石にやりすぎた、そんなに使わねーわ、って。でも確かにチャージの瞬間に興奮を覚えたことは事実。興奮と後悔の連鎖、これぞロック。

みんなそういうロックを日常に取り入れていこう!日常にもっとロックを!ということで(一回も思ったことない)、人のブログを読んで感じたことやそこに関係あるかもないかもしれないこと、それをただ書いてみるという非常にロックなことをやってみます。

 

aniram-czech.hatenablog.com

 

「濃度が低い」情報にもメリットはあります。アクセスのしやすさと手軽さはもちろんですが、「他の人の意見が聞ける」っていうのは大きいと思うんですよね。リアルな場所、クローズドな場所というのは良くも悪くも似た者同士が集まるので、あんまり考えもせずに雰囲気に呑まれて同調してしまうというか、とにかく自分と離れた人の意見が聞こえにくい環境になっています。だけど、アクセスしやすい場所というのはとにかくいろんな人がいる。いろんな人の話が聞ける、というのは自分の頭のなかを補正するのにすごく役立つと思うんですよね。

 

 

埼玉やその周辺に住む人が電車で大宮駅に行こうとして、乗換案内のサイトで「着駅 大宮」って入力して時間を調べると、次の画面で必ず「候補  ①大宮(埼玉) ②大宮(京都)」って出るんですよ。もちろん埼玉のほうを選ぶんだけど、その分ひとつ入力が手間になる。これ埼玉県民あるあるです。

そんで毎回「京都の大宮うぜー」って勝手なことを思うんですよ。しかもなんかわかんないけど向こうの大宮のほうが由緒正しそうじゃないですか、イメージ的に。なんたって京都だもん。いや実際どうなのか知らないんだけど、なんとなくそんな気がしてるので大きな声で文句は言いづらい。どうせ向こうの土地のほうが上なんだ、という卑屈さが埼玉県民にはある。

この前Twitterで京都らへんに住んでる人が「アーティストのライブツアーで『大宮公演』ってのほとんど埼玉の大宮だから腹立つわ」的なことを呟いていてなんか妙に嬉しい心地がした。

向こうもこっちの大宮にむかついてるんだ!よかった一緒だ!って変な喜び方をした。

ネットに接続していなかったら俺は絶対こういう発言に遭遇できていないで一生向こうの人の感覚に触れないまま過ごしただろうからネットってすげーなーと思った。普段の生活とネットが繋がっていくとこういうことがあるよなー。昔は相当数いたといわれるアマチュア無線が好きな人はこんな気持ちを味わっていたのか。

「パンうめー」とかそういうどうでもいいことつぶやく人をもっと何人もフォローしたいんだけど、探しようがなくて難しいんだこれが。有益でもなく害にもならないような人を手当たり次第にフォローしてみた時もあったけど、なかなか自分に合う(ってその人が呟くのを勝手に見るだけなんだけれど)人は少ない。いや少ないからいいのかもしれないなー。

でもあれだね、Twitterやるまでは「6月9日はロックの日」なんて普通に言ってたけどタイムライン上では「ロックの日」なんて言葉は使い倒されすぎて全く口にする気にはならなくなるね。

そこがなぁ。

 

そんで今日の仕事終わりにTwitterのタイムラインを遡ったら夕焼けが凄く綺麗だったとみんなが言ったり写真載せたりしていたんだけどなんか良いよねこういうの。

なんだよ俺も見たかったなーと一瞬思いはしたものの、"今日の夕焼けは綺麗だった"ということを知れたからそれで十分幸せな気持ちになれた。ぜんぜん意味がわからんけどそう思った。

 

っていうか気付いたんだけど俺そんなに言うほど夕焼けのこと好きじゃないかも(こいつマジかよ)。夕焼けの色とかが好きなんじゃなくて夕焼けになっている状態の空が好きというか、うーん違うな、夕焼けの空や照らされた街並みや周囲の景色と自分が接続している状態が好きなのかも。

もしかしたら前に書いた「夕焼けの写真を撮るのは卑怯だ」というのはそこかもしれない。夕焼けという現象それ自体を画面に収めることができても夕焼けの時に見たあの感じを収めることはできない、とわかっているはずなのにそれでも写真に収めようとするのは卑怯ってことかもしれない。よくわからんが一歩近づいた気がする。いや近づくの随分大変だなおい。

 

 

anohika.hatenablog.com

 

自分のための言葉と、人とつながるための言葉。

それは両方、きちんと持ちあわせていたい。

 

いやー自分の思ったことを言葉にするのほんと難しい。厚切りジェイソンにとっての漢字と同じくらい難しい。書いているうちに、その時書いている言葉のほうに気持ちが寄っていっているような気がしてくることも時々ある。

いつもいつもこれだけ書いておきながら、自分の思ったことの全てをありのまま書けたことないなぁと思う。自分が思ったままに書けたと感じたことは一度だけあるけれど、それはなんていうか……後藤浩輝という騎手のことを書いたやつで、明るい話ではない。

自分の中の「俺語」みたいな感覚があって、例えば俺が思う「夕焼けを見た時のあの感じ」を文章なり言葉にして人と共有するにはどういう言葉を使えばいいのか、これは難しい。まず無意識に感じていたことが何なのかを認識して、人が読んでなるべく差異が生じないような言葉に俺語を翻訳して書くとか相当難しいな。最近はそれやろうとしてたのかもしれない。

うーん逆に差異が生じるから面白いと考えることもできるか。うーんうーん。ある意味なんとでも書けるとも言える。

少しも寒くないわ、ってのは本当は少し寒いんだよ。だからありのままじゃない、という解釈もできる。あのアニメ見てないけど。

滲み出る行間からほとばしる熱いパトスで思い出を裏切れ。もうなんだかわからん。100%正確に書かなくても、書けなくてもいいのかな、という気もした。