KADOKAWAの偉い人が捕まったそうなので、 角川武蔵野ミュージアムとかいうとこに行ってきました。
ゴッホなんとか展みたいなのを観に行って、チケット売り場ですごいことに気づいた。「あ、あれっ!???」っつって。ゴッホとピカソ勘違いしてた。バカすぎるー。自分でもびっくりするわ。
なんでもよく調べないで行くほうなんだけど、勘違いにしてもひどすぎる。勘違い?人違い?何が違ったの?そもそもどういう期待をしていたの?まあ正直「なんか、行くかー」って電車を降りただけなのでべつになんでもよかったんだけど。あとけっこういい値段だった。
展示の入口でもぎりの係員が「写真撮るのはいいですけど、動画はダメです」って言ってて、うるせえ調子のんな何も撮らねえわこちとらゴッホとピカソ間違えて来てんだよと思ったけど、確かに動画だともうネタバレになっちゃうなあれは。
あのー美術館でよくある「この作品だけ写真OKです、他のはダメです」みたいなやつ、気持ちはわからないでもないけど、人々の承認欲求を利用して「SNSで広めろ、人を呼び込め」って操ってる感じがしてテンション下がる。
展示の内容は、円形の広ーい部屋の真ん中寄りに椅子やソファが並んでて、そこに座ってプロジェクションマッピングで壁に入れ替わり映る絵を眺めるみたいな感じだった。大きめの音量でクラシックみたいなの流れてた。たまに絵の全体がゆっくり動くからちょっと酔った。
バカはバカなりに、「あ、ひまわりってゴッホなんだ〜」「あー、あの夜のなんかくるくるしてるやつもゴッホなんだ〜」と思いながら展示を観てた。あれ"観る"っていうよりも、"過ごす"が近いかもしれん。あの展示は完全に時間の概念がある。
部屋の中では女の人が赤ちゃん抱いてあやしながら歩き回ってたり、立膝に肘を載せて背もたれに厨二病っぽく寄りかかる男がいたり、ずっと喋りながらたまに写真撮っててうるさい女子大生グループがいたりして、めいめいが何かを思いながら好きなように過ごす空間って感じで悪くなかった。
帰りの電車で思い返すと「あの空間は一体なんだったんだろう」って感じになるけど。人に勧めるかはわからん。でもまあ数日経って思い出すと「うん、悪くなかった」になるんだろうな。日本語って面白いね。「よかった」より「悪くなかった」のほうがなんか良いニュアンスを醸し出すんだもん。
出口はこちら、みたいな説明がなかったからどうやって帰ればいいのか様子を観てたら、ぽっかりと開いた黒い空間に人々が吸い込まれていってたから俺も吸い込まれるように出た。
カイジのエスポワール号でジャンケンに負けたやつが連れてかれる扉みたいな感じがして、吸い込まれる時ちょっとドキドキした。
なんかまだその先にも展示があって、ゴッホが生まれてから死ぬまでのいろんなトピックスが時系列で表示されてる展示だった。「生まれる」とか「どこそこで働き始める」とか「耳を切り落とす」とかそういうやつ。
「仕事クビになる」「実家に戻る」「女にこっぴどく振られる」とかいろんなこと発表されてた。生きてるうちにはほとんど評価されなかったらしいのに、そんなことまで後世に全部公開されちゃってなんか気の毒な気もする。
こうやって芸術家の人生を知ると、作品も理解できそうな気がしてきていいね。これでもうピカソとは間違えないだろ。でも逆にそれが作品の解釈を固定させてしまう場合もあるからなんとも言えない。「こういう時代にこういう人生を送った人物だから、作品にそれが滲み出ている」みたいに単純に落とし込んでいって深く考えなくなるやつ。もうそうなっちゃったら美術を鑑賞する意味はあんまりないかもね。どんどん消費する方向に寄っていく。
あと
帰りの電車で改めてホームページ見て、「スマホとイヤホンがあれば解説が聞けます」と知った。そんでその後に、たまに行く別の美術館に寄って、いつも常設展にある好きな絵が展示されてなかった時の作者の気持ちを答えなさい。